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[創業の森]明和グラビア 戦中のハイテク応用 塩ビクロスから車の内装まで

2000.02.07 / NEWS

2000.02.07 毎日新聞大阪朝刊

 塩化ビニール製テーブルクロスのトップメーカー「明和グラビア」。手がける製品はテーブルクロスから電子部品、人工芝、自動車内装品と幅広いが、原点には会長の大島康弘さん(78)が戦時中に習得した特殊印刷技術がある。明和グラビアの歴史は、戦争のために開発された技術の民生転換の歴史だった。そしてそれに心血を注いだ大島さんの半生そのものだ。

[文字を消さない]

 「そんなんされたら、困りますよ」大手家電メーカーの技術担当者は不快感をあらわにした。目の前で自社製品の小型電卓のキーボードの表面を大島さんがシンナーでふきとり、文字を消してしまったのだ。同じ電卓を使っていた大島さんは、使い込むうちに文字がかすれ、消えてしまう欠陥に気づいていた。「シンナーなんて使われたら、何でも欠陥商品になってしまう」という担当者に、「どんな使い方をしても大丈夫なものを作るべきでしょう」と切り返す。そして、モールドプリントという特殊印刷技術を応用し、シンナーでふいても文字が消えないよう改良したキーボードの試作品を取り出して見せた。1979年のことだ。数カ月後、家電メーカーは明和のキーボードの全面採用に踏み切る。現在PHS、携帯電話向けキーボードを中心に急拡大する電子部品事業は、こうした型破りなパフォーマンスでスタートした。大島さんには自社技術に対する強い自信があったのだ。

[国策で紙幣偽造]

 自信の原点は戦時中にさかのぼる。工芸学校で精密機械技術を学んだ大島さんは39年9月、旧日本陸軍第九技術研究所(川崎市)という特殊機関に配属された。任務は敵国経済をかく乱させるための偽造紙幣の発行だ。どの国でも紙幣の印刷には最先端技術が使われる。偽造防止のため、版の凹部にインクを乗せ、表面に微妙な起伏を持たせる凹版技術だ。大島さんは特に難しい人物の「顔」部分を担当した。大蔵省印刷局からの出向者や製紙、印刷技術者らに囲まれ、終戦までの約6年間、最先端技術をたたき込まれたのだった。

[特許で技術独占]

終戦後、名古屋の「明和印刷」に入社した大島さんは、新素材のビニールに目を付け、日本で初めて凹版を利用したビニールへの印刷の実用化に成功した。会社は52年に倒産したが、同僚らと53年に明和グラビヤ印刷(現明和グラビア)を設立。ビニール風呂敷(ふろしき)、テーブルクロスの大ヒットで経営の基礎を築いた。当時、流通の中心は大阪・船場。「どうせなら近場で商売を」と55年、名古屋から大阪に拠点を移した。「安くて品が良ければ、だれであろうと取引してくれた」と大島さんは当時を振り返る。開かれた大阪の気風が追い風になった。飛躍をもたらしたのが64年のモールドプリント技術の実用化だ。版の凹部に液状のビニール素材を入れて固めると立体感のある複雑な模様のシートが出来上がる。円筒式の金型を使い、輪転式で大量生産したのがビニール製レースのテーブルクロス。これにより高価な手芸品を身近な大衆品に変えてしまった。そして、関連技術で約50件の特許を取得、他社の追随を押さえ込んだ。

[72年に海外進出]

海外展開も早く、72年にはインドネシアに進出。日系自動車メーカー向けを中心にビニールシートから座席、天井など内装品すべてを手がけた。需要は膨らみ、従業員はピーク時で約4000人。日本国内の約8倍で、テーブルクロスなど家庭品でスタートした工場は世界でも指折りの自動車内装品工場に変身した。ところが、97~98年のアジア経済危機で、自動車向けの生産は激減した。設備をテーブルクロス、シャワーカーテンなどの家庭品生産に振り向け、日本国内の生産を現地に移管。世界に向けた輸出拠点とすることで、なんとか危機を乗り切りつつある。大島さんは93年に会長に就任し、経営の一線を退いた。しかし、97年春には卵白を使ってケーキの表面に立体的な文字を印刷する技術を開発するなど技術開発に余念がない。今後は「もっと若手に活躍してほしい」というのが大島さんの願いであり、同社の課題でもある。今、最も気にかけているのが社員が開発した「絵が立体的に見える印刷技術」。この技術を使った名刺、はがきを訪問客に見せては得意そうに目を細める毎日だ。

[今ではこんな企業に――]

日本で初めて塩化ビニールへのグラビア印刷を実用化。凹版印刷技術を核に応用展開し、テーブルクロス、自動車の内装、電子部品、医療用品など幅広い製品を手がける。モールドプリントなど、その技術力は海外からも高く評価されている。

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